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金剛禅 力愛不ニ 理想郷実現 修行の目的 の件 Facebook未公開記事

都市のデザインを一変させる技

 

いずれは不思議な技を研究することになる少林寺拳法、と私は考えている。理想郷建設のための技こそ私は研究したい、と私は思うようになった。若ければ強くなりたい一心で良いのであろうが、50代になったら理想郷建設のためなら修行を再開しても良い、とそういう心境に私は変わったのは、異常な事態が発生しているからであろう。

 

少林寺拳法を修行すると、その特徴を活かした人生に変わっていくのは本当。力愛不ニは少林寺拳法の特徴の1つであるので、力愛不ニの人生に変わるのである。コレは年齢に関わらず本当のことである。

 

 

 

 

理想郷建設を考えながら修行すると、少林寺拳法に通じる。道訓を唱えてなんになるのか? →少林寺拳法に通じるのである。聖句を信条し道訓する。その結果、力愛不ニの特徴を活かした人生に変わる、と。そういうわけなのである。道訓を唱える機会を持ったら、理想郷建設を考える。そして武技としての少林寺拳法の修行を行う。すると、理想郷建設のために必要な神秘力を得られることになる。この神秘力とは力と愛などが調和すると得られる力である。力と愛とは理想郷建設と思考することを意味する。力と愛は相反する要素で、力は正義、愛は慈悲である。正義とは悪を滅ぼし、慈悲は自他を活かすこと。悪を滅ぼすということは削除すること、慈悲は創造して編集して保存すること。つまり、行動と思考は相反する要素で、戦う際には迅速な行動の速度でなければ負けてしまうのだから、思考して速度を落としてはならず、また迷ってはならない。コレに対して思考することとは思考の成果物を生み出し、変更し、保存することなので、熟考するときには思考に集中しなければならない。余計なことは考えず、設計し、製造し、テストし、運用し、維持することが重要となる。ゆっくり動く必要はなく、可能なかぎりという範囲内の速度で行動すれば良い。この関係が、相反する関係のことで、力と愛の関係はこの関係を持つ。

 

仏教では、力と愛の関係に関連がある、と考えている仏教と、そうではない仏教に分けられる。正しい仏教は前者の方である。力はつまり理想郷建設のための力、愛はつまり思考である。オフィスでパソコンを用いて資料やシステム開発を行うこととは異なる思考である。つまり、理想郷建設について思考すると理想郷が実現するのだが、思考の成果物とはまさに理想郷そのものである。よく設計された理想郷を想像していれば、理想郷は無理なく実現する。この実現の仕方は神秘的なやり方を用いると、一瞬にして都市のデザインが変わり、すぐに理想郷が物理的な実在に変わる、というものらしい。私はその技が少林寺拳法の修行の中にあるのではないか? と考えている。少林寺拳法の修行の中、とはどこか? 拳禅一如の枠内である。この枠内から外に出てしまうと、とたんに金剛禅社会の外に出てしまうことになる。外の方が心地よい拳士は少林寺拳法から離れていくし、ソレはその拳士の自由である。また、金剛禅社会の中だけで生きていく、ということもその拳士の自由である。だが、金剛禅社会とは道院や支部、総本部、その他少林寺拳法に関連する施設の中や少林寺拳法に関連した日時のみだけ関連する施設に変わる大会会場などにしか無い。この施設の中でのみ理想郷が誕生する、と考えることは自由であるし、トランプ前アメリカ合衆国大統領がもっと若かった頃に有名になったシンク ビッグ の思考で、物事を大きく考えて実現しよう、と都市全体を理想郷に変える、と志すこともまた自由である。

 

 

 

 

いまどきは、一般人でも大きく考える思考方法を持つ。インターネットに接続して専用のサイトを持ち、世界中に物販することが個人間売買などのやり方も含めれば簡単にできるようになったからである。で、あれば、個人的な理想に終わってはならない。たくさんの人に愛される理想を持ち、共有されるようにならねばならない。あまりにもたくさんの理想が乱立し、公開されているのだから競争になる。このようななかで、毎日二十数万円を何もしなくても稼ぐ人も現れて、その方法を得ようとし、有象無象の稼ぎ方が現れて、混乱となる。コレは力と愛には関連が無い、と考える仏教のような有様である。霊感商法のような詐欺が横行する隙に通じる状態とは混乱状態であるのだが、治安が悪くなるということは、つまり、力愛不ニでは無いからなのである。

 

 

道訓にある仁とは調和のことである。人に優しくできない詐欺行為は仁の観点から見破ることができるのだが、では詐欺の本質は何か? というと、力愛不ニではない、ということから、力と愛がバラバラになって分解されている、とわかれば、正義と思考がハナシのロジックとして成り立っていない、コレが詐欺の本質だ、ということになり、つまり、一見、正義があるように見えても思考の成果とは関連が無いためただのキャッチコピー程度の軽い説得力で、思考の成果は正義と関連がないため、何をやっても許される、早いもの勝ち、先行利益は法を犯そうが犯すまいが無関係、という無法な考えに見える、つまり、軽薄ということがわかってくることになるのである。

 

少林寺拳法で道訓を単に唱えるだけではなく、理想郷建設につなげれば力愛が関連を持つのだ、という特徴に至る。至るように完成し、進歩を完成からさらに進めているのだからそのようにならざるを得ないようになっており、何がなんでも理想郷は実現するようになっていくのである。

 

力と正義、プラスとマイナス、陰と陽、他にはアナログとデジタルなど、相反する要素に満ち溢れている今日では、必ず相反する要素を調和させないとならなくなっている。戦後の日本は人智学が考える社会構造であった。いまは金剛禅が考える社会構造になった。質の高い人をすべての社会に送り込み、すべての社会を理想郷に変える、ということになったのである。古すぎる思考では人智学の枠内で、かつ、金剛禅の枠外の理想にしか至らない。コレでは関連が発見できにくいため、結局、人類から見捨てられることになる。最先端の考え方は、力愛が不ニの特徴を発揮する金剛禅社会が他の社会の特徴となる考え方である。したがって、理想郷建設を思考し、成果物として理想郷を実現するためには、神秘力が必要となるため、神秘力は力愛不ニの特徴を持つ少林寺拳法の修行で体得するアレコレから生まれるようになっているので、ソレ以外はダメだ、と見切ることになるのである。神秘力が無ければならない。その神秘力とは、理想郷建設力と思考力と、理想郷そのもののことである。

 

このように考えると、都市のデザインを一瞬にして変える技こそ神秘力を発揮する不思議な技である、という結論に至らざるを得なくなるのである。技とはテクニックである。テクニックとは大きな観点から見て力愛が不ニである技を指すのである。不ニとは加算する、という意味なのだから、理想郷建設に理想郷建設に通じる思考の成果を加えていくことを力愛不ニというわけで、つまり、理想郷を1つ作ったら次々に畳み掛けるようにドンドン理想郷を追加していくことになる。都市のデザインが振り返ったら知らない設計になって外見も機能もまったく変わっていた、かつ、より快適な社会に変わっていた、という不思議な体験を毎日のようにすること、となる。

 

年月というコストは一瞬だけ。

経済的コストはゼロ。通貨の単位はその場所を勢力の範囲内とする国々の通貨の単位。

 

コレがいまどきの力愛不ニではないか? と私は考えている。バイオセントリズムと物理学。コレを調和させるとそのように考えざるを得なくなるからである。