詐欺と戦う、投資好き

私が発見したサイバーセキュリティに関する情報を報告するブログで、株式投資について調べた情報についても書くブログです。

アメリカ合衆国では技術革新度という観点からいえば中国に追い抜かれてしまった、と考えているのである

キャシー・ウッド氏、中国エクスポージャーをゼロにした理由を語る

私の場合、大学生の頃からの思考の癖になっている特筆できそうなクセがあって、ソレは、藤波辰巳選手の「ライバルを作れ そして勝て!」という表題のとおりなのだが、ライバルに追いつかれた・・・とほんのわずかな数の観点でも事実そうであれば、全体の観点数からみて99%の観点で追いつかれていなくても追いつかれてしまった、もっと差をつけなくてはならないっ、と考えてしまうことなのである。

わかりやすく換言すれば、「肉を斬らせて骨を絶つ」をさらに難易度を発展させて上昇させて「骨を絶たせて命を絶つ」という戦いのロジックがあって、後者の場合、ほんのわずかな防御ミスによる傷でも死んでしまうっ! と考える、と。こういう精神で追いつかれた、追い抜いた、引き離した、引き離された、という状況を乗り切る思考、と。こういうわけなのである。

大袈裟に傷を考えるとミスになる。ミスになる、ということはちっぽけな損害をさらに将来にわたって拡大させてしまう、という意味である。この可能性をなくすことから戦勝体験の増加が生まれる、と。そのように考えるので大袈裟に考えたり騒いだりすることは自滅の方向性を私に感じさせるのでそんな思考は持たないのである。損だからである。

自分の関わっている仕事や趣味で勝ち負けを問われて評判が決まるような局面がある。社会とはそういうものなのである。
グローバルリーダーがいかに思考するのかはわからんが、リーダーがグローバルなリーダーに成長する際には一匹狼の群れの中で育っているかどうかでまったく違うグローバルリーダーへ成長する、と私は考えることにしている。コレは少林寺拳法から学んだコトなので誰かから教わったことではない。一匹狼の群れ、とは世間を出し抜き目標を達成することに成功する、という人たちのグループのことだ、と私は考えた。一人ひとりが強力で、かつ、縦割りはダメだから、とわかったうえで縦と横のつながりを重視し、助け合って共通の敵を倒す、と。こういう人を一匹狼の群れのメンバーと私は考えたのである。

この群れは正義を重んじる群れである。無法者を倒す群れである。グローバルリーダーといっても経済の世界は平和の枠の中。しかし、企業統治とは政府の統治と連動して矛盾がないように行わなければならないのでグローバルリーダーになる、といってもグループが何を目標としているのかによって大きな差が生まれるようになる。正義を重んじる、とは人類が平和であることを重んじ、その結果、平和の枠の中で儲ける・・・のか、平和の枠の外にいる無法者を騙して高く売りつけて平和の枠の中の人類には安く販売して負担を減らす・・・のか、コレぐらいの差が生まれるのである。コレぐらいの差が生まれる、とは、ようはグローバルリーダーとは世界のリーダーなのだから人類が持つ願望や期待を裏切ってはならない、という原則を正義の原理に作用させて販売すればするほど無法者が滅んでいく、というものだと考えるのか、無法者を退治するのは治安維持の担当者の仕事だから私たちはやらない(やらない、といって世界を見捨てるわけではなく貢献する際に治安維持活動はしない、政府や警察や軍隊に任せる、ということで仕事は人類のために一生懸命やります、ということ)、こういうものだと考えるのか、というぐらい差がある、と。こういうことなのである。

どちらも正しいのだが、私は正義がなければ儲からない時代になったと考えているほか、上記のような思考のクセを持っているうえに正義の名のもとに悪党を滅ぼすことはタイヘン愉快なことなのだ、ということを教えられ納得している者である。さらに、グローバルリーダーとは正義を重んじて実力を持つ人たちのグループの中で育ってはじめてなるものである、とグローバルリーダーについて独自の定義をしているのである。当然、平和の枠の外にいる無法者をブチ殺す企業経営を考える。この無法者は企業の内外にいるので見つけたら愉快な処刑を考えるわけである。そうすると、人類の審判が下り、結果として愛されるかどうか? ということが成敗の焦点となる、と。その結果、人類に愛される企業活動だった、となればさらに愉快になれる、と。こういう思考を持っている者に至ったのが私なのである。

この思考は、ごく自然にできなければならない。一匹狼の群れの中で育てばできるようになる。できるようになればヒマだから世界一を目指す、と。

この考えは常にトレーニングありき、の人生となるのだが投資家のように厳しい修行のようなトレーニングの日々はしないのである。新日本プロレスの合宿所のような合理的な練習、少林寺拳法の総本山のような合理的な練習、大学の一流の成績を大会でおさめることができている体育会 少林寺拳法部の練習のような厳しい練習だがオモシロイ練習、コレが苦労せずに上達するトレーニングであって、自分に対して厳しく律するだけの生活ではなく、常に必ず変化して改善されて強化された自分、つまり自由に行動することができる自分を実感しながら発見の繰り返しも伴いつつ旨いメシも食う、そういうトレーニングの日々をするのである。

このトレーニングを同じようにしながら違う思考で行う人もいる。ソレはソレでその人の自由なのだが、自分がもっとも優れている取り組み方をしていてその人たちを実力で大きく上回ったとして、その後、追いつかれたとする。このとき、騒がず、自分の信念に忠実に回数を増やして実力をさらに鍛えて強化増大することができるためには、追いつかれた体験を「すべて追い抜かれてしまったようだ」と冷静に受け止める根性が必要かな、と。実は本人としては、他の多数の観点からいえばぜんぜんまだまだ足りネーのはオマエの方だ、と事実正しくわかっているので騒ぐ必要がない。わざわざ騒いで周りを巻き込もうとする奴は中国人か韓国人か彼らに尻尾を振っている日本人である。つまり、中間管理職どまりで完成された三国人と日本人のことであり、バカと私が呼ぶ者たちのことである。普通の良識ある日本人はすでに社長を目指しているし、次大社長を目指しているし、サイバー攻撃を跳ね除けてデジタル通信デバイス(情報ツール)を使いこなす超大社長を目指している。事実をみればよぉくわかる筈である。妨害するかしないかの違いやね。バカと天才の違いは、である。

こうして、冷静に、しかし、追いつかれてしまった項目に対してはさらなる努力課題として細分化したトレーニング項目のモトとして把握し、じっさいに細分化したトレーニング項目を行うわけである。ライバルはライバル、仲間は仲間、と考えているので別に他意はない。たいがいそのような他意を持つのはイチイチ他人に自分だけの問題なのに告げまわり相談したいわけでもなく同情を得たいだけのような、または、単に注目されたいだけのような、スターになりたいだけのような、スター気取りをしてみたいだけのような、そういう奴が持つのである。なんとなく案に数十年前に一緒にトレーニングしていた同輩を批判しているような文章になったが、ここまで酷いバカはいなかった。みんな自分の目標を持って(部活動とはかけ離れた目標であっても事実上の世界では重要な目標・・・英会話だの政治学習だの大学で習う講義だの)をもって頑張っていた。だから私のいた時代の少林寺拳法部はトップ6位以内に入れなかったんだナー とは思うけどもね。やるなら部活動に集中しやがれ、とは書いておく。監督や先輩たちや後輩たちに失礼だからである。一生懸命やっててよかった。なぜなら、一瞬にして素人同然の身体へと破壊されてわずか数年で(もうそろそろかな? と)元の身体に戻れるからである。筋肉の使い方とか神経の使い方とかまったく別人に変えられたが、当時の鍛え抜いた身体はとうとう元の身体に戻せる効果で私を救い始めた、と。なんとなく自衛隊アメリカ軍の国防活動のおかげが大部分かな? とは信じているけどもネ。